昭和50年04月01日 朝の御理解
御理解 第71節
「ここへは信心のけいこをしに来るのである。よくけいこをして帰れ。夜夜中どう言う事がないとも限らぬ。おかげはわがうちで受けよ。子供がある者や日傭取りは出て来るわけにゆかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参った来ることはできぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ。」
信心の稽古をする。稽古の焦点、稽古ただ一生懸命参って来るというだけではいけない。お話をただ聞くだけではいけない。ただ一生懸命拝むだけではいけない。参る事も大事、拝む事も大事。けれども肝心要の所を分からせてもろうて、そこを焦点にけいこをする。その事が、いよいよ出来る事の為に、一生懸命のお参りをする。神様に一生懸命の御祈念もさせてもらう。
昨日佐賀の伊万里に住んでおられる、黒川さんという方から葉書を頂いた。こういう葉書です読んでみましょう。「日々暖かくなり、桜の花も開く季節となりました。合楽教会の周りには、菜の花も満開となってある事でしょう。私は三年程前に池田の小母さんと一緒に何度か素晴らしい合楽教会に通ったものです。素直になりなさいと仰られた先生のお言葉は、今でも私の心の中に残っています。
所でその当時、池田佳子さんの叔母さんにお借りしていた、おかげの泉と金光大神の二冊の本を、気にはしていたのですが、返す機会がなく、そのまま三年が過ぎてしまい、伊万里に帰ってしまいました。それで別便でお送りしたので、返して貰えないでしょうか。永い間、何の連絡もせず、借りていた事をお許し下さるようお願いします。本当にすみませんでした。葉書にて失礼だと思いますが、よろしくお願い致します。最後に、合楽教会の益々の繁栄と、池田のおばさん、佳子さんの健康をお祈りします。」
実に素直な葉書でしょう。いうならそんな事がありますね。本やら借りて来て二年も三年もそのまま、忘れておるわけではないけど忘れておる。けれども3年ぐらいすると自分の本になった様に思うて、こら確かにそうです。ここで本を借りて行った人が、返した事がないというて良い位に、その証拠には本がなくなってしまっているです。だからこれは、本だけの事ではないですけれども。そう言う事ではおかげは受けられません。この方はやはり、三年間借りて読まれた御本をです。
先日大変丁重な荷造りをしてから、本が二冊送って来とりました。おかげの泉厚い金光大神の厚い本です。どこから誰にどうしてこんなものが送って来ただろうかと思っておりましたら、昨日のこの葉書を見てから、ああ黒川さんという方からだったなと思ったんです。これを送られて自分も気持ちがさっぱりされたでしょう。さっぱりすると言う事が有難いです。しかも初めてお参りした時に先生に素直になりなさいと言われたのが、今も自分の心の中に生々と生きておる。有難いですね教えが生きておると言う事は。
ここには信心の稽古に来る所。何を焦点に稽古をするか一生懸命、それこそ何年間もお日参りをしておる朝参りをしておる。一生懸命お参りもしておる。お話を頂くから金光教の信心の事も詳しくなっておる。昨日ある方の、熱心に信心ができます方のお届けがございましたから、ここで、お取次をさせて貰いました。そしたら扇子です。白扇を頂いて、白扇の要の方を上に向けて頂いてたんです。ところが扇子の要のところが抜けておるんです。いわゆる肝心要です。
その方が願われる事はどうぞ商売繁昌のおかげを頂きますように、どうぞ神様に喜んで頂くような大きな御用も出来ますように、どうぞ大繁昌のおかげを頂きますようにという願いをなさいました。そしたら私が神様から頂く。本人の願いを聞いてやりたい、愈々今日よりも明日、今年よりも来年という様に、扇子というのは末広のお知らせです。そういうおかげもやりたいというのです神様は。願っておるし又おかげを頂いて、大きなお役にも、御用にも立ちたいというのですから実に嬉しい。
神様としても喜こばしい願いであろうと思うのです。けれども今お前に願いの通りのおかげをやって、例えばこう拡がってもです肝心要の所が抜けておるから、下の方からバラバラになるというお知らせでした。どうですか肝心要の所を間違えたんでは、いくら願ってもいけないと言う事がわかります。願いの筋というものは、本当に神様もホロリしなさるような願いですよ。どうぞ大繁昌のおかげを頂かせて下さい。そして神様にも喜んで頂くような大きな御用にも立たせて下さい。
いうなら神様の手にも足にもならして下さいという願いなのですから、素晴らしいです。だから神様も聞いてやりたいわけです。けれども肝心要のところが抜けておるのですから、氏子の願い通りにおかげを授けても、拡がった途端に根元の方から、足許の方から崩れて来る様な事では、おかげがおかげになりません。皆さんの信心の焦点はどこに置いてあるでしょうか。今日の七十一節の前に七十節に、人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならぬと教えておられます。
人間は万物の霊長なんだ。例えば今日の葉書を読ませて頂いた、この黒川さんはです。三年間も御本を借りて、借りっぱなしにしておった。所が人間には良心というものがある。これは人間だけにしかない心なのです。良心です。所が三年も借っておって、もう自分のものにしてしまうといったようなケ-スは大変多いと思うです。初めの間は良心があるから、早う返さにゃ返さにゃと思いよったけれども、三年もたったら忘れてしまうだけではなくて、それが心に引っ掛らん様になる。
良心が麻痺してしまう。そうなったら人間も、人間の値打ちはありません。万物の霊長としての値打ちはありません。黒川さんの良心が二冊の本を、三年振りに返してこられたわけです。それは良心があるからです。牛やら馬やらではとても出来ません。人間だから出来るのです。けれども人間の面は被っておっても、そんな事が平気になってしまう。これは借りた本だけの事ではないですよ。
こう言う事ではおかげが受けられん。こんなとじゃいかんと言いながら、思いながら知っておりながら、お話を聞くたんべんに、それを思いながらです、もう心が麻痺しておりますから、それを改まろうともしない。人間じゃけんこの位の事は当たり前のような考え方にすらなってくる。実意丁寧を欠いたわけです。心がわがままになり、横着になっおる事を、自分でも気がつかない位になっておるのです。
ここには信心の稽古にくる所と仰るが、一生懸命にお参りをしてくる。一生懸命に拝みもする願いもする。けれども肝心要の所を外して願っても、おかげにならんと言う事と同時にそれでは万物の霊長だからと言われる、霊長の値打ちも出ない。その万物の霊長というのはわが心に神がござる。自分の心が愈々清まる心が美しゅうなる。そこに霊徳と申しますか、人間にだけしか与えられていない、尊い心が尊い心として人間の幸の基礎を作る事になるのです。
何というても信心の焦点、その基礎というのは素直な心なのです。だから心が汚かっちゃいけません。心が小さかってはいけません。心が大きく豊かにしかもそれが美しい心でなからなければいけません。そこから素直な心というものが、愈々育って参りましょう。素直にて雲の上までのぼる道あり。只生まれつき素直だというだけではいけません。その素直な心が、それこそ光輝きするように、光を作っていかなければいけません。それには、先ず心が綺麗に清まらなければいけません。
魂が清まらなければいけません。その為にはです改まって行かなければいけません。改まるという事は、昨日私がお取次をさせて頂いた、なかなか良い信心ができる、熱心でもある。願う事のそれは、神様が喜んで下さるような事をしておるのであるけれども、肝心要のところが抜けておる。これではおかげの頂けん事を、自分で知りながら、それはそのまま、ないがしろにしておる。
これではおかげを神様が下さっても、末広に拡がった事は拡がった途端に、肝心要が抜けておりますから、根元から崩れてしまいます。そういうおかげではいけないのです。今日は、信心の稽古を、日々こうやってなさっておられる。その焦点が間違っていないかと、改めて一つ気づかせてもらい、改めて一番大事な所を、愈々大事にして行かなければいけないと言う事です。
どうぞ。